あんな内容のブログを更新していたら読んでもらえなくなる。笑
ということで素敵な週末の読み物として角界ダンディズム調査の第二弾をアップしますね。
角界ダンディズム調査
相撲1500年の歴史から、日本人の粋と優雅を探り出せ。
手がかりは川端要壽氏の名作「物語日本相撲史」だ。
相撲は「世界一小さい戦場」で闘う格闘技である。われら日本人は、小さい。世界に打って出る際は、精密機械とか半導体とか、とにかく小さくなければならない。そして「世界最小詩形」として売り出されているのが俳句(≒俳諧の発句)である。
むかしきけちゝぶ殿さへすまふとり 芭蕉
俳聖・松尾芭蕉の句碑が、秩父市にある。漢字に直せば、「昔聞け秩父殿さえ相撲取り」である。「いいから昔の話を聞いてみなよ。あの秩父殿だって、ホントは相撲取りだったんだぜ。笑えるじゃねえか」
なぜ笑えるのか。角川文庫の「芭蕉全句集」によると、「剛勇にして徳望も備えた武将を相撲取りと言いなおしたおかしみの句」ということになっている。けれども、問題はそう単純ではない。理由については、後述する。
芭蕉は江戸時代の人であり、彼の言う「昔」とは、鎌倉時代である。秩父殿とは、源氏の武将・畠山重忠だ。あるとき、関東最強を標榜する長居なる人物が、時の最高権力者・源頼朝の官邸になぐりこみをかけてきた。だが秩父殿=重忠にあっさり肩をつかまれて、骨をくだかれてしまったらしい(『古今著聞集』)。たしかに、剛勇にして徳望も備えた感じである。またこの時代には、かの高名なる「河津掛け」をあみだしたといわれる河津三郎や、その相手とされる俣野五郎といった著名力士がいた。「河津掛け」をかけたのは実は俣野だという説もあるらしいが、それよりも重大な事実がある。
彼らはみな武士なのだ。頼朝は、武士必須のトレーニングとして、流鏑馬(やぶさめ)、競馬(くらべうま)、そして相撲を課した。いざ戦争となれば、人間、こまめに弓矢を放ったり、重い刀を振りまわしたりなど、そう何時間も続けられるものではない。最後は取っ組み合いになるのは、現代における中学生のケンカと同様である。それを頼朝は見抜いていた。つまり相撲は、あくまで実戦的な、有用な技術であったわけだ。
いわゆる「武家相撲」の時代である。源頼朝は、武士の世を築くと同時に、相撲からダンディズムを奪った張本人であった。 鎌倉時代の前は、平安時代である。天皇や貴族の前で行われた「相撲節会(すまいのせちえ)は、五穀豊穣を祈願し、祝うための神事であった。より具体的にいえば、農作物がちゃんと収穫できるように祈るセレモニーの一環であった。力士ならぬ相撲人(すまいびと)は、明日のダイコンのために、相撲を取っていたのである。
とはいえ、貴族の前で相撲を取ってさえいれば、空からダイコンが降ってくるわけではない。畑を耕し、種を蒔くのは、あくまで農民である。百姓である。われらの先祖である。
尊い御身分の方々は、われら貧民どもがきっちり労働をこなすことを願って、きらびやかな儀式を催し、相撲を見物していたのだ。もっとも、贔屓の相撲人が勝とうが負けようが、翌年に雨が一滴も降らなければおしまいである。農業のシビアな現実を鑑みれば、相撲などまるで無用な、どうでもいいことである。そのどうでもいいことを、あたかも有意義な行為であるかのように、厳粛に執り行ったのである。まったくお気楽な連中だ。
十八世紀英国にあらわれたダンディたちは、まさにお気楽な連中であった。パーティーでの着こなしだの立ち居振る舞いだの、どうでもいいことに価値を与えた阿呆どもであった。いうなれば神事時代の相撲は、ダンディズムそのものだったのである。
さて、芭蕉。彼の本業は、スパイであった。当時の言葉でいえば忍者、現代でいえば探偵である。ガチガチの幕藩体制であった当時、さして身分の高くない人間が、そうホイホイ自分探しの旅に出られたはずがない。また病弱な老人が、「おくのほそ道」二四〇〇キロメートルの道程を縦横無尽に闊歩できたはずがない。実際はどうだったか知らぬが、あやしい話こそ、積極的に採用するのが当コラムの方針である。
探偵といえば、シャーロック・ホームズである。十八世紀ダンディの滅亡を嘆き、十九世紀末に復活したダンディを体現する人物だ。野暮を蔑み、優雅を愛するホームズの血が、芭蕉にも流れていたのである。芭蕉は「秩父殿などどエラそうにしているが、所詮は(貴族趣味のエレガントを忘れて、武士道という名の実利主義に走った俗物の)相撲取りさ」と嘲笑していたのだ。
冒頭の句の真意はこれである。俳聖・芭蕉とともに、ダンディ不在の時代を嘆こうではないか、諸君。
原文ママ
いかがでしたでしょうか?
それでは今度こそ素敵な週末を!