さらに、電源を入れてパソコン本体が熱を帯びてくるとコーヒー臭くなって壁に向かってぶん投げてしまいそうになります。
かわいそうなノートパソコン。
こんにちは。竹内一馬です。
YouTubeってほんと便利ですよね。昔の相撲の映像なんかも残っていたりするし、探せば探すほど面白い動画が出てくる。さっきも相撲の映像を観てたんですけど、最終的には腕相撲の映像観てましたからね。笑
TSUNAも現在23号の制作に入っておりまして、名古屋ツナイトのことも同時進行なので、てんやわんやな感じなのですが毎日それなりに楽しくやっております。
さて、今回はTSUNAサポーター様には付けていたバックナンバーの中から、今はもう誌面でしか読めなくなった記事を一部だけ紹介していこうかなと思っております。
TSUNAには創刊当初、不動哲平さんというライターさんがいました。不動さんは短歌を愛する方だったのですが、創刊から8号までTSUNAで「角界ダンディズム調査」というコラムを書いてくれていましたが、癌によりこの世を去られました。
角界ダンディズム調査は独特の言い回しとリズムで、さらに相撲界をダンディズムと比較するという斬新なコラムだったので、僕を始め創刊当初から多くの読者に愛していただけたコラムでした。
最近は角界ダンディズム調査のような読み物的要素が少なくなってはきているので今後こういったコーナーも作れたらいいなと思っております。今回はその角界ダンディズム調査の創刊号での記事を皆さんに読んでいただけたらと思いブログを更新しました。

【角界ダンディズム調査】
「相撲」とは、ズバリ「格闘」を意味する言葉だったそうだ。なにせ、わが国初の相撲は、建御雷命(たけみかづちのみこと)と、建御名方命(たけみなかたのみこと)との対戦だったのである。両名とも、神様である。われら日本人は、この世に出現した時点で、すでに相撲を取っているのだ。
そうであるならば、中には、ちょっとおかしな連中もいたはずである。最強・最高の力士もいいが、やはり、ちょっとおかしな人がいなければ、世界は成り立たない。そんな人たちを、仮に「ダンディ」と呼ぶことにする。
ダンディとは、十八世紀末、英国ロンドンに現れたおかしな連中だ。産業革命の影響でブルジョワジーが台頭し、帰属の優位性がゆらいだときに、貴族よりも貴族らしくふるまう平民が「ダンディ」と呼ばれ、時代のスターとなったのである。連中は、髪型、服装、言葉遣い、パーティーにおける態度など、どうでもいいことのプロを自称し、えらそうに講釈をたれることによって、王族や貴族に雇われていた。ネクタイの結び方やヒゲの抜き方(剃り方ではない)まで、さも偉大な行為であるかのようにふるまったのである。現代日本に流布している、ナイスミドルのちょい悪オヤジ的なイメージとはずいぶんちがうが、そのへんはここでは触れない。
よく引き合いに出されるのが、幕末、日本の京都に現れた新選組である。江戸幕府が衰退して武士の優位性がゆらいだときに、武士以上に武士らしくふるまった農民たちだ。彼らもまた、武士(会津藩)に雇われて、盗みをはたらいたら切腹、一般人と恋愛したら切腹、とにかく「士道」に背いたら切腹などという隊規を掲げて暴れまわっていた。数年前にNHKの大河ドラマ「新選組!」によって注目が集まり、ようやく京都の屯所跡などのゆかりの地が整備されたが、今も昔も、京都人には嫌われているようである。同じく大河ドラマの「龍馬伝」では、一転してチンピラ同然に描かれていたのだが、やけにリアルに見えた。
ダンディも新選組も、本物の貴族や武士に雇われつつ、おのれの役割を演じきり、はかなく消え去った時代のあだ花である。本物よりも本物らしく。文学や芸術にも通じるこのスピリットを、相撲界にも見つけ出したい。当コラムの主眼は、そんなところにある。
もっとも、ちょっとおかしな連中が、それだけで歴史に残れるものではない。ダンディはシャルル・ボードレールやオスカー・ワイルド、新選組は子母沢寛や司馬遼太郎といった文学者の「物語」によって、アンチヒーローとして後世に語り継がれたのである。実際のところがどんな人物であったのか、あやしい部分も多い。けれども、多少あやしいからこそ、ダンディズムなる概念が成立し、チンピラ集団が悲劇の主人公たりえたのである。よって、主に川端要壽氏の名作「物語日本相撲史」(筑摩書房)を頼りに、文学をひとつの拠り所として、角界におけるダンディズムを調査していきたいと思う。
さて、冒頭のタケミカヅチは鹿島神宮、タケミナカタは諏訪明神に、それぞれ祀られている。両名とも、勇武の神様であり、「古事記」にもその名がある。だが、「相撲の神様」として世間に認知されているのは、出雲国飯石群能見の郷土・野見宿禰(のみのすくね)である。両国国技館のそばに、その名も野見宿禰神社がある。
ウィキペディアには、「日本相撲協会が管理している相撲神社。両国国技館にほど近い墨田区亀沢にある。年3回の東京場所の取組編成会議終了後に、日本相撲協会執行部と審判部幹部、各一門の審判委員や、相撲茶屋関係者などが集まって例大祭を行っている。祭典を取り仕切っているのは出雲大社教の神職。なお、新横綱が誕生した場合には、この社殿の軒先で土俵入りを披露するのが慣例となっている。境内には歴代横綱碑などもある」と(この原稿を書いている時点では)記されている。また日本書紀によると、野見氏は、垂仁天皇の御前試合において、当時最強を誇った大和国の当麻郷の郷士・当麻蹶速(たいまのけはや)を破って一躍名を挙げたそうだ。ただこの当時の試合は、突く・なぐる・けるをメインに、相手方が死ぬか降参するまで問答無用で闘われたものらしい。まだ「相撲」が格闘技であった時代のエピソードである。さすがに、ダンディズムのようなどうでもいいことが入り込む余地はなさそうだが、この野見氏の後裔が、この勉学の神様・菅原道真といわれているらしいから、油断もスキもあったものではない。さらにいえば、野見VS当麻の決戦が開催されたのは、垂仁天皇7年7月7日であった。この日付が、のちに相撲が神事として開催されるたびに、いちいち採用されたというから驚きである。彦星と織姫によるロマンティックな邂逅として知られる七夕が、格闘の記念日でもあったというのは、
なんとも示唆に富んでいるではないか。
生きるか死ぬかの真剣勝負であった相撲は、やがて占いの一貫として、庶民の間で活躍する。農作物の出来不出来を占うために、農民たちが力くらべをしたのだ。現代においてもなお、農業は自然や天候によって大きく左右されるギャンブル性の高い産業である。縄文・弥生時代の、当時最先端の農業を開発した人々が、自然や天候を神様と捉えたのも当然であろう。彼らは部落における最強選手同士を闘わせ、神の恩恵を争った。勝った方が、めでたく農作を得られるわけだ。むろん、実際に得られるかどうかは、時間が経ってみなければわからない。けれども、時空を超えておのれの運命を知ることこそ、占いの醍醐味である。かくて相撲は、神様同士の争いから、神様に捧げる神事となった。
このようなロマンティシズムに、皇室や貴族が飛びつかぬはずがない。部落同士の小競り合いから、国家の豊作を願う一大イベントとなったのは、聖武天皇の御代である。そしてかの絢爛たる平安時代になって、神事・相撲は、いよいよ発展をみせるのである。平安時代に神社が大々的に新築・修築され、朝廷において舞楽・流鏑馬・競馬などと並んで、相撲が「相撲節会(すまいのせちえ)」として開催されるようになる。時が経って、相撲節会(すまいのせちえ)がなくなっても、神事相撲自体は各地の神社に受け継がれている。現代に残っているものも多数あるから、いかに盛大な催しであったかわかろうというものである。ダンディが現れるのは、文化の円熟期と相場が決まっている。われらのヒーローが登場するのはもうすぐだ。
在原業平(ありわらのなりひら)。そう。平安朝きっての、名うてのプレイボーイである。わが日本にもダンディがいたとすれば、真っ先に名前が挙がるのが彼であろう。
【世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし】(古今和歌集)
「この世に桜さえなければ、春を過ごすにも、もうちっと呑気でいられただろうよ」
この「桜」を即物的に捉えれば、いかにも雅な、しゃらくせぇ感じの歌である。けれども、仮に「桜」を「恋」に置き換えてみると、一挙に脳天気な恋愛模様があらわれる。どちらにしてもしゃらくせぇかもしれないが、少なくとも後者は、われら平成の庶民にとっても、条件は同じはずである。恋のむせ返るような息苦しさは、誰でも一度は経験しているであろう。生活の合理性を考えれば、
恋など面倒くさいだけである。自由恋愛の戦場にさらされるより、かえって政略結婚で見合いをし、炊事洗濯をやってくれる女性をあてがわれた方が、どれだけ気楽か知れない。けれども、それでもなお、われわれは恋をせずにはいられない。そして毎年、冬がくるたびにくりかえされるクリスマスやバレンタインデーがもたらす圧力は、春のたびにくりかえされる花見狂奏曲にそっくりではないか。桜などそこらじゅうに咲いているのに、われわれはなお御座を敷いて寒風にふるえながら、夜桜見物に執念を燃やすのである。
話がそれた。業平は、天皇の血筋でありながら、政変によって臣民に格下げされ、出世の道を閉ざされた人である。その鬱憤を、どうでもいいことに熱中して発散し、かえって名をとどろかせたのだ。そうでもいいこととは、恋と和歌である。皇室や藤原氏の女性たちを次々と籠絡し、同時に、小野小町らとともに「六歌仙」と称され、「古今和歌集」に数多くの歌が採用された。時の権力者・藤原氏に迫害され、京を追われて東国に下った「をとこ」の悲哀を描く「伊勢物語」の主人公のモデルとされているのが、かの「源氏物語」の光源氏の造形にも、多大な影響をあたえた。
その、天下無敵のダンディが、なんと相撲取りだったらしいのである。いや、正確に言えば、恋も和歌も相撲もうまいスーパーマンだったのである。「栄歌物語」には、まだ御年19歳であった当時の宇多天皇を、豪快に投げ飛ばしたという記録があるそうだ。日本に初めてあらわれたダンディが、相撲界が初めて生んだダンディでもあったのである。さすが国技というべきか。
しかしながら、純英国風の「ダンディ」と「プレイボーイ」は、似て非なるものである。また平安貴族にとっては、作歌はどうでもいいことではなく、ほとんど仕事に近かったそうだ。とすると、業平をダンディと呼んでいいかどうかは、多少あやしい。だが多少あやしくなければ、ダンディではない。
最後に、業平の有名な歌をもうひとつ挙げておこう。
【名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと】(古今和歌集)
「都鳥を名乗るからには、(京の)都に詳しいだろうね。では問おう。都に残してきたわが愛しの人は、生きているのか、いないのか?」
言問橋。業平橋。隅田川。大相撲の聖地・呂国は、日本初のダンディが想いをはせた場所にほど近い。
相撲情報誌TSUNA 創刊号 角界ダンディズム調査より 原文ママ
いかがでしたでしょうか?反響次第ではバックナンバーの記事の一部を今後も定期的に紹介できればと思います。全ページはさすがにできないですが、少しでも相撲情報誌TSUNAを知っていただければと思います。
では、今日はこの辺で打ち止め。