本場所は力士が日頃の稽古の成果を発揮して番付(ばんづけ)と呼ばれる相撲界の強さを表すランキングがあり、それをひとつでも上のランクになれるよう真剣勝負を行います。
ルールは至って簡単で、丸い土俵の外に出るか、足の裏以外が地面に着いたら負けとなります。他にも8つの反則があるのですが
①握りこぶしで殴る。
②頭髪をつかむ。
③目またはみぞおちなどの急所をつく。
④両耳を同時に両手で張る。
⑤前立褌をつかみ、または横から指を入れて引く。
⑥のどをつかむ。
⑦胸、腹をける。
⑧指をもって折り返す。
②の頭髪をつかむというのは勝負の流れの中でチョンマゲに手がかかってしまうことがあり、しばしば目にすることがありますが、他の反則は基本的に目にすることが少ないですね。
番付は序ノ口→序二段→三段目→幕下→十両→幕内の順番が強さの指標となっていて、幕内が一番強いということになります。幕内には平幕と三役で強さが分かれていて、前頭○枚目という○の部分に入る数字が小さいほど強いということになり、一枚目は筆頭と呼びます。筆頭の上が小結、関脇、大関、横綱という順で強くなっていきます。
番付は基本的に勝数が負け数を上回れば「勝ち越し」、逆に勝数が負け数を下回れば「負け越し」となり、勝ち越しは番付が上がり、負け越しは番付が下がるようになっていて、力士は少しでも上の番付を目指し、日々稽古を重ね、本場所の取組に挑みます。
今日から十五日間の本場所は力自慢たちの熱い闘いから目が離せません。
順番が逆になってしましましたが、僕がTSUNAを創刊した経緯について少し書かせていただきます。
元々ロックバンドをやっていた僕がどのようにして相撲の世界と出会ったのかということですが、僕が過去にやっていたバンドは全くと言って良いほど売れませんでした。数枚のCDをリリースしたものの買い手がいないので在庫の山を抱えることになるのです。作っている時は「これで世界が変わる」とまで思っていたわけですが、僕たちは世界を変えることができませんでした。
2002年頃、僕が江東区にある亀戸に住んでいました。家賃3万円で隣人が新聞をめくる音が聞こえるほどの壁、風呂なし、日当たりなしのボロアパート。
部屋で練習をしていると隣人が「うるさい!静かにしろ!」という意味を込めて全力で壁をぶん殴ってくるようなクレイジーなアパートでした。当然自宅での練習はできず、しかし毎日スタジオに入っていれば経費もかかるので、当時流行っていた路上での弾き語りを亀戸駅前で開始しました。
日々、酔っぱらいに「下手だね」と罵倒され、たまに人が立ち止まって聴いてはくれるものの、在庫のCDを購入するまでには至りません。しかし諦めるわけにもいかない。
そんなとき、3人の大柄な男が僕の目の前に現れて「何か歌ってよ」と言ってきたのです。
浴衣姿にチョンマゲの大柄な3人。。。
コスプレでないかぎり彼は力士だということがひと目でわかった。三重県南伊勢町という海と山しかない田舎で育ったので生で力士を見るなんて生まれて初めて。興奮した僕は
「何部屋なん?」
と彼らに聞くと「テディベア」「徹子の部屋」「ベルトコンベア」と、まとも答えてくれませんでした。でも、せっかく立ち止まってくれたのだから一曲歌わせいただきました。
歌い終わったあと、その曲が入っているCDを買ってくれた力士が現在幕内で活躍をする豊ノ島関だったのです。出会った頃はまだ序二段だったかと思います。
歳も近く、お互い大志を抱いて上京しているということもあり、僕たちはすぐに仲良くなりました。
「朋輩」という言葉があります。友達という意味で使うのですが、僕はこれをずっと地元三重県の方言だと思っていました。当時豊ノ島関が気に入ってくれていた曲が親友のことを思い歌っていた僕達の「朋輩」という曲でした。
豊ノ島関の地元高知県宿毛市でも朋輩という言葉を使うようで、そう言った面でも僕は親近感を持っていたのかもしれません。「俺の地元も朋輩って言葉を使うよ」と言ってくれた時に一方的ですが、僕はとてつもない親近感が湧きました。
今でも一緒に食事をしたりすると豊ノ島関が必ず言うのですが、当時お相撲さん三人組で自転車に乗っていて「なんか良い歌だな」と思い、気になったので兄弟子を止めて「ちょっと聴いていきませんか?」と言ったのは俺なんだよと彼は言います。
僕が何かの間違いで売れっ子ミュージシャンになっていたら豊ノ島関と出会うことはなかったと思いますし、入門間もない豊ノ島関が兄弟子を止めてくれなければ僕は相撲と何かしらの接点を持つことはできなかったと思います。
今、書き終わってみてテレビで相撲が始まったので今日はこれまで。
では、また次回!